奇跡の第三セクターの奇跡頼みでない道のり

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受難の時代

新型コロナウイルスで大打撃を受けた業界は少なくないが、その筆頭のうちに鉄道業界を入れてもいいだろう。2024年2月時点で、乗客数は、新型コロナウイルス前までのピークには戻っていない。それでも、ドル箱路線の東海道新幹線を抱えるJR東海や、傘下に不動産業や旅行業を抱える私鉄大手は高い営業利益をたたき出している。では、それ以前から青色吐息だった地方路線、国土交通省でいうところの、日本に95あるという地域鉄道事業者ではどうなったのか。

良くはなっていない。国土交通省によると、令和元年度(2019年4月~2020年3月)に対する令和4年度(2022年4月~2023年3月)の乗客員数は、16%減である。当然ながら経常収支にも影響し、令和元年度の赤字事業者数は78%だったのに対し、令和4年度は85%に増えている。ギリギリ黒字だった事業者が16%の乗客数減に伴い赤字転落していることが見て取れる。

Source:国土交通省

茨城県の第三セクター

そんな地方路線のひとつが、今回の主役。東京からJR常磐線特急に揺られること一時間と少し。ひたちなか海浜鉄道。勝田駅から、海水浴場近くの阿字ヶ浦まで14.3㎞をつなぐ、ひたちなか市と茨城交通株式会が共同出資する第三セクターだ。

1日フリー切符にも描かれた今は亡き駅猫「おさむ」をキャラクターとするこの地方路線はしかし、駅を新設し、列車を増発するという、他の第三セクターとは真逆のアプローチで収益を改善し、「奇跡のローカル線」とも呼ばれたところでもある。そして、令和3年の1月、コロナ禍真っ只中、経路不明の感染者が急増し、警視庁では逮捕者全員にPCR検査を実施を開始したころ、国土交通省は一つの申請を許可した。ひたちなか海浜鉄道の延設。

Source:国土交通省

年間入場者数170万人の国営ひたち海浜公園をようしているとはいえ、失われた客足が戻るか疑問視されているなか、大きなチャレンジであることには違いない。それに、申請はおりたが、実現するかはまた別の話だ。収益改善のために、それこそ猫の手でも借りたいほどではあろうに、他のローカル線、例えば和歌山電鐵貴志川線のように、猫をそこまで積極的には使っている印象はない。そりゃ、「おさむ」はもう亡くなっているし、「みにさむ」はレアキャラだから使いづらいとかの事情はあるだろうが、そもそも「おさむ」が健在のころでも、グッズ販売くらいはあるにせよ、駅長イベントのような、神頼みならぬ猫頼みな経営ではなかった。おなじころ、和歌山の駅長「たま」は国内のみならず海外メディアにも取り上げられるほどの扱いであったにもかかわらず、だ。

あえて困難な道を選んでいる、というのは言い過ぎだ。しかしこの路線はもともと、その生まれからして難産でもあった。長くはなるがせっかくなので、路線の歴史から見てみよう。

明治あるあるの、難産路線

早速の回り道になるが、この路線を語るに常磐線抜きにはいられない。まずはこの図を見ていただきたい。今日の勝田駅周辺の概要図だ。

一部の駅は省略 筆者作成

そもそも常磐線は日本鉄道株式会社によって、東北本線の支線として設置された。株式会社というからには当然民間企業だ。明治政府の懐事情は残念至極だったから、常磐線に限らず、鉄道敷設もまた民間企業に頼らざるを得なかった。常磐線は、住民の足という目的も無いわけではないがそれ以上に、常磐炭鉱―福島県いわき市や茨城県高萩市に存在した炭鉱―の石炭を首都東京に運ぶことを目的として開発された。ちなみにこの事業には、2024年の紙幣切り替えで、福沢諭吉から肖像をバトンタッチする渋沢栄一も携わっていて、およそ70年間、その勤めを果たしたとか。

だからというわけではないだろうが、石炭を乗せるわけでもない駅は後付けということがあり、佐和駅は1897年に開設されたが、同じころ、勝田駅は存在しなかった。佐和駅周辺は、駅の乗降客のおかげで経済的恩恵を受けていたという。

それを見て思うところがあったのが、当時の勝田村の村長、大谷新介。大谷は、日本鉄道に、佐和から水戸の間に駅の設立を要望した。ところが、日本鉄道からの回答は、なかなかブラックだった。

日本鉄道「いいよ。でも那珂湊との間を鉄道でつないでね。あ、わかってると思うけど、費用はそっち持ちだから」

勝田と三浜の位置関係 筆者作成

那珂湊とは、那珂川の河口にある港町だ。江戸時代、那珂湊は商港として栄えたが、明治に入ってからは、漁港としての色が強くなっている。磯崎,平磯とセットで「三浜」と呼ばれ、避暑遊興地としても知られていた。

そんな那珂湊まで、線路でつなげというのだ。

現在の那珂湊 かつての繁栄の面影が残る。ものすごく少ないしバラバラに残っているので、観光地として盛り上げるには弱いのが残念至極。はやり数は力なのだと実感する。

貧富の差が激しい時代の村長さんだから、そりゃ今の常識よりは相対的にお金持ち。とはいっても、しょせんはローカル名士。規模がはるかに違うとはいえ、常磐線ですら、先に述べた渋沢栄一のほかに、川崎銀行の創始者である川崎八右衛門や、日本セメントの先駆けを築いた浅野総一郎など、当時の日本を代表するような事業家が参画しても苦労した。なのに、単なる一介の村長さんに鉄道引けって、あんまりでしょ。

しかし、大谷は諦めなかった。協力者、出資者を集め、「武平鉄道」として1903年に鉄道免許を申請している。仮免許は翌年に発行されたが、そこからが長かった。

まず、駅設置を約束してくれていた日本鉄道が国有化された。つまり、約束が反故にされた。ちなみに、こうして国有化された鉄道が日本国有鉄道、いわゆる国鉄で、今のJRの前身だ。

次に、那珂湊側の駅をどこにするかで揉めた。これは主に、那珂湊側の思惑が絡んでいる。「あんな田んぼばっかりのイナカの勝田村なんかより、もっと都会で、観光資源のある水戸とつないだほうがいいだろ」と、積極的に駅を置きたがらなかった。そもそも、江戸時代からの伝統である水路がまだ機能していたから、常磐線もあえてこの地方を通らなかったという説もあるくらいだ。だから、特に初期のころは、積極的に線路を敷設するメリットがあまり見えなかった。

そのうえ、戦争後の景気後退もあり、鉄道工事の資金集めは難航、社長も逃げ出すありさまだった。もろもろの紆余曲折あり、名前も「湊鐡道」となったかの路線の、勝田~那珂湊間が開通したのは、申請から約10年後の1913年のこと。

この間に、大谷は何をしていたか。混乱をただ見ていたわけではない。私財を処分し、株式購入などにあてていたという。見返りに彼が得たものは、せいぜいが湊鐡道の監査役で、しかも1909年になってからようやくのことだ。

この粘りはどこからきたのか。大谷が、武田信玄を輩出した甲斐武田氏の発祥の地である武田村出身であるからなのか、あるいは当時北茨城県随一の港として栄えていた那珂湊との陸路をつなげることで、地元勝田への経済効果を見ていたからなのか。

作ったら終わり、ではない 何事も

かくして路線が開通したわけだが、受難のときはまだ続く。今度は、過当競争だ。

最初の相手は汽船だった。相手は、那珂川汽船株式会社。

那珂川汽船のルート 筆者作成

江戸時代からの伝統のある那珂川水路は、水戸市街から那珂湊まで直通なので、アクセスの良さでは湊鐡道よりアドバンテージがある。しかもこの会社は、那珂湊に今もある湊公園で大規模な花火大会を催して人を集めたりと、なかなかやることが派手であったらしい。

しかし余裕のある経営があだになったのか、あるいは湊鐡道の地道な営業努力のおかげなのか、1916年にライバルである湊鐡道に買収された。しばらくは那珂川の対岸と連絡する連絡船事業として延命していたらしいが、やがて事業部ごと売却され消滅したという。水路から陸路へという時代の流れには逆らえ切れなかったのだろう。

那珂川汽船ではないが、汽船のイメージ 山崎年信(画)宮城玄魚(撰・書)『通運丸開業広告引札』物流博物館所蔵 Source:wikimedia

競合がなくなり、株式配当もできるようになり、ほっと一安心…とは、ならなかった。新たな強敵が現れたのだ。

きっかけは1920年の特許状の出願だった。北茨城の中心地であり、水戸城や偕楽園や弘道館などの観光資源を抱える水戸市街から湊町まで一気通貫する電気軌道敷設、水濱電車の申請だ。

水戸から湊町まで湊鐡道を使う場合、どうしても勝田駅での乗り換えが必要で、これを面倒と思う人が出るのは当然だったし、だからこそ汽船と競合したといえる。しかも、那珂川の南側ルートなら、遊興客が見込める大洗を経由することができる。大洗は、風光明媚な風景と海水浴場で当時すでに有名だった。田口義治著の「水戸の風景と歴史 : 一名・水戸漫遊案内」では、大洗の風景について「大洗崎の風景は、かの紀の和歌浦の如く、駿の田子浦の如く又陸の松島の如く」としているし、大洗海水浴場は、早くも1880年代に海水浴が開始されている、いわば海水浴の老舗だ。

鉄道網が整備されると、観光旅行も盛んになり、ガイドブックの発行も増えた。水戸観光の周遊先として、大洗と、遊郭があることで有名だった祝町が書いてあることが多い。「水戸の風景と歴史 : 一名・水戸漫遊案内」田口義治 著 楓外詩廬 出版 Source: 国立国会図書館デジタルコレクション

乗客が奪われる。危機感を持った湊鐡道の動きは速かった。

第1ラウンド

まずは水濱電車。1922年、浜田駅~磯浜駅間の営業を開始。しかし湊鐡道も負けてはいない。同年に那珂湊駅~磯崎駅間の鉄道敷設の免許を獲得、翌年に開業。これで、三浜目当ての遊興客の足をつかんだ。

一重線は既設路線、二重線は新設路線 筆者作成

第2ラウンド

水濱電車が1924年に水戸駅前駅まで延設。茨城県北部の中心地である水戸へ、いよいよ直結する。対して湊鐡道は、1928年5月に磯崎駅から阿字ヶ浦駅までの免許を得て、突貫工事を経てわずか2か月で開業までこぎつけた。

一重線は既設路線、二重線は新設路線 筆者作成

そこまでしてなぜ路線を伸ばしたのか。水濱電車をドル箱たらしめているのは、大洗。これに対抗して湊鐡道は、1927年に阿字ヶ浦に阿字ヶ浦海水浴場を開発したのだ。

この企画は当たったのか。期間限定ではあるが、水戸駅どころか上野駅からも阿字ヶ浦までの直接乗り入れがあったというから、ある程度は当たったのだろう。

見開きで競合企業を並べる大胆なレイアウト 「茨城三浜の栞」川崎貞次郎著 東北公論雑誌社出版 Source: 国立国会図書館デジタルコレクション

第3ラウンド

水濱電車が港町まで軌道を敷設。1930年のことだ。対する湊鐡道は、もう鉄道は延ばしようがなかった。

最終的にはこうなった 筆者作成

結局、水濱電車と湊鐡道との競争はどうなったのか? かつての那珂川汽船と同じことが起こった。ただし今度は、吸収する側ではなく、される側として。水濱電車は湊鐡道の株をこつこつと買い集めた。水濱電車としては、那珂川にかかる橋が1938年の台風で崩落してしまい、悲願の大洗から那珂湊までの路線を廃線せざるを得ない事情もあったのかもしれない。さらに、戦時体制に時局がうつる情勢も手伝って、1940年には、湊鐡道は水濱電車の系列に収まった。そもそも、市場の大きさと固定費とを鑑みると、水戸から那珂湊までの旅客を食い合うのは、いかにも無駄が多い。しかしその水濱電車も、やはり時代の流れによって現れた自動車と競合し、1944年、陸運統制令に従い、茨城鉄道、袋田温泉自動車株式会社、さらにいくつものバス会社を統合する形で生まれた茨城交通に吸収される形で消えることになる。

今日、水濱電車は存在していない。最後まで残っていたのは、大洗から水戸駅までの区間。廃線は1966年のことだった。

水濱電車の路線跡は道路になっていて、面影はどこにもない

戦後の那珂湊

先に述べたように、那珂湊は漁業が盛んだった。ならば、水揚げされたアジやサンマを鉄道で運べば便利でいいじゃないかと誰もが思う。しかし意外にも、那珂湊駅ができてからも、港湾、つまり湊のすぐ近くまでは路線は伸びていない。いや、需要がないわけではないし、計画が無いでわけでもなかった。早くも1933年には、臨海鉄道の申請がなされているが却下されているし、1935年、1936年にも、湊鐡道の国営化とセットで臨界鉄道の申請がなされているが、これもやはりかなわなかった。

皮肉なことに、港湾鉄道が実現したのは、太平洋戦争が終了した1945年のことだ。同年10月には、建築のための計測が始まり、延線3キロの敷設工事を11月10日から11月末までに完成させよと公布が出ている。

臨港鉄道跡 おさかな市場に行く人の多くが使う道路になっている

何のために?海産物を運ぶためでは当然ない。戦後真っ先に行われたのは、日本の非武装化だった。茨城県や栃木県は、東京に近いことと、民家の少ないだだっ広い平地が多くあったことから、大規模な軍事基地がおかれていて、そこに保管されていた武器弾薬を効率的に投棄する必要があった。この敷設は、そのためのものだ。

工期が11月10日から11月末だから、150m/日のペースで敷設する、なかなかのブラック工期だ。だが、日本国有鉄道総裁室外務部出版の「鉄道終戦処理史」を読むと、“連合国の日本管理政策は第1に日本の非軍事化と民主化にあり、鉄道運営もこの線に沿って行われたことは云うまでもないところで、初期においては先づ日本の解体という占領目的達成のための軍事輸送は万難を排して行われた”とあるので、このノリは当時は普通だったのかもしれない。これを、茨城新聞は、まだ軍国調が抜けない感じで報じている。

どんどん進捗 湊の臨港鉄道
那珂湊臨港鉄道工事は復員者の協力に依りすでに3百余名の人員が出勤、延長三キロ行程の約三分の一の効率を挙げてるが、これも失業救済の意味合いから常傭人夫一日十五円に米二合の特配があるので希望者は満員で遅くて今月未完成の目鼻がつくに至った

「那珂湊市史料 第6集」 那珂湊市出版

武器投棄は恐ろしく速やかに行われ、早くも翌年5月には使われなくなり、地元住民に邪魔扱いされている。これを漁港のサンマ出荷のために使うえないかという申請を連合国軍にするという記事が出ているが、結果がどうなったのかは見当たらない。港湾鉄道が跡形もなく撤去されているところを見ると、多分うまくいかなかったのだろう。

高度経済成長下の鉄道

戦後の、それから先の話は、日本のほかの地域でも見られる現象が起きた。昭1950年代までは、漁港で水揚げされた海産物を運ぶ貨物路線としても使われたが、時代は貨物列車輸送からトラック輸送へと確実に変わっていた。勝田駅での貨物列車廃止に伴い、完全に旅客列車としての役割だけとなる。1974年に出版された「いばらき延線をゆく」には、那珂湊駅の話として、こんな記載が残されている。

駅の隣にある「茨城交通運輸部管理事務所」はパッとしない鉄道と路線バスの力関係の象徴といえる。事務室の中に並ぶ机で、鉄道関係の仕事をしているのは伊藤平治駅長の席だけ。あとは全部バス部門の人たちだ。「建物は鉄道の所有なんですよ」と伊藤駅長。「お客さんが増えるように宣伝して下さいよ」と駅員たちが笑った。

「いばらき沿線をゆく」朝日新聞水戸支局 編著 鶴屋書店 出版

それでもまだ、このときは笑う余裕があったともいえる。

ベルトコンベア式で生産されるT型フォードが開発されて以降、モータリゼーションは時代の流れだった。あとはタイミングだけの話だ。日本では、1960年代に、大量生産を前提とした自社開発の国産オート三輪トラックが販売されてから急激に進んだ。データの残る1966年の自家用車の数はせいぜい2M台。この記事が書かれた1974年は約14.6M台と、10年足らずのうちに、およそ6倍に膨れ上がっている。ペースを落としたものの、1988年には1974年比で2倍になり、頭打ち感が出てくるのは2005年も過ぎたころだ。

自家用車の登録台数推移 データは一般財団法人日本自動車整備振興会連合会より

そのころにはもう、余裕はなくなっていた。

地元民でも湊線を利用したことのない人も多くなり、利用者は70万人、かつての2割程度まで落ち込む。県内のほかのローカル線も続々と廃線を決めるなか、湊鐡道だけがその流れから逃れることはできなかった。茨城交通が廃線を申請したのは、2005年12月のことだ。

そのあとの、第三セクターとして再出発するまでのタイムラインをみていこう。

2006年6月 自治会、商工会議所、観光協会、沿線高校、県からなる湊鉄道対策協議会発足

2007年1月 市民組織 おらが湊鐡道応援団 結成

2007年9月 金融機関等と湊鐡道を存続させることに合意

2008年3月末 湊鐡道消滅

2008年4月1日 ひたちなか海浜鉄道発足

廃線が申請されてから、およそ28か月間。とっかかりの湊鉄道対策協議会の発足をはじめ、この間に積極的な動きを見せていたのは、当時の勝田市、いまのひたちなか市だった。

大谷翁も、草葉の陰で胸をなでおろしただろうか。

事業継続に必要なものは

ローカル線の歴史ひとつで、明治以降の日本の変遷が浮かび上がってくる。時代の流れに翻弄されるのはもちろん路線だけではないのだが、インフラとして社会とかかわるものだから、鉄道は人間よりも柔軟に対応することが難しい。そんななかで、この路線は、なんとかサバイブしているように見える。

ひたちなか海浜鉄道の吉田社長は、富山地方鉄道の万葉線を立て直した実績を持つ。運やイベントや猫やなにかで注目を集めること、言い換えればチャンスは当然必要だが、事業継続のためにはそれだけでは不十分だということがわかっているのかもしれない。

関東の駅100選にも選ばれた那珂湊駅の駅舎、蚊取り線香の炊かれた待合室には、おらが湊鐡道応援団の作った観光客向けの地図がおかれている。駅舎で弾き語りをする人がいたが、彼らは地元民だそうで、交通弱者のために鉄道を残していきたい、そのためにできることをやっていきたいと言っていた。といっても、地元住民は、列車を使わずに自家用車を使うのだとも言っていたけれど。

少子化、人口減少、テレワークの普及。悪い見通しは数え上げればきりがない。それは人生も同じだ。辛い状況でも、周りのサポートがあれば少しは楽になる。そう思えば、そこまで悪い状況でもないのかもしれない。

那珂湊にある華蔵院というお寺には、猫の伝承が残っている おらが湊鐵道応援団HPより

※那珂湊の表記については、時代や資料によって「那珂湊」と書かれていたり、単に「湊」と書いてある場合もあるが、ここでは「那珂湊」で統一させていただいた。


References

  • ひたちなか海浜鉄道
  • 国土交通省
  • 「茨城県鉄道発達史」中川浩一著 筑波書林出版
  • 「茨城県鉄道余話」中川浩一著 筑波書林出版
  • 「茨城の民営鉄道史」中川浩一著 筑波書林出版
  • 「水濱電車 水戸から大洗・湊へ」小野寺靖著
  • 「那珂湊市史料」 那珂湊市出版
  • 「那珂湊の歴史」佐藤次男著 宮崎報恩会出版
  • 「勝田の歴史 : 写真集」勝田市史料編さん企画委員会編 勝田市出版
  • 「運転協会誌 地方民鉄特集」日本鉄道運転協会編 日本鉄道運転協会出版
  • 「市政」2011年4月号 vol.60 公益財団法人全国市長会館 発行
  • 「いばらき沿線をゆく」朝日新聞水戸支局編 鶴屋書店出版
  • 「茨城三浜の栞」川崎貞次郎著 東北公論雑誌社出版
  • 官報 1909年09月20日 大蔵省印刷局編
  • 「常磐炭礦概要」常磐石炭鑛業會出版
  • 「水戸の風景と歴史 : 一名・水戸漫遊案内」田口義治 著 楓外詩廬出版

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