絹の里の猫神様

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うつくしまふくしま

同じ県内でも文化が違うなんて話はよく聞くが、福島県もその例に漏れず。かの地は、大きくわけて会津、浜通り、中通りという、だいたいは南北つまり縦割りに3つの地域に分けられる。なぜこの3つなのか。理由はひとえに地形にある。福島県は、「東北の背骨」ともいわれる地面をつまんで引き上げたように急峻な奥羽山脈、その裾野を沿うように流れる阿武隈川流域とひだを寄せたような阿武隈山地、そして太平洋に面した沿岸部とからなる。これら3つに該当する地域がつまり会津、浜通り、中通りだ。山より平らかなほうが交通の便は当然よいから、阿武隈川の堆積地からなり、仙台を経由して太平洋に至る中通りが東北の大動脈として機能するのはごもっとも。そして、いくつかの阿武隈川の支流を起点に、山々の間をぬうように流れる河川を繋いで細い街道が延び、あるものは奥羽山脈をいざり超えて日本海へ向かい、あるものは阿武隈山地をまろびぬけて太平洋へ向かう。福島とは、どうやらこんな土地のようだ。

日銀本店 Source:wikimedia

その福島県は福島市には日銀、つまり日本銀行の支店がある。ナニが悪いんだと福島県民には怒られそうだが、まぁなんというか、言っちゃあなんだが意外。これに尽きる。

日銀福島支店の謎

いやだってさ。仙台はわかるよ仙台は。でも、日銀の福島出張所が開設されたのは1899年。一方で、仙台支店ができたのは1941年。仙台より福島が30年も先を行ってるわけ。そのうえ、全国的に見てもかなり早い。福島より先に支店が開設された地域を見ると、北海道に3箇所あるのはご愛敬としても、なんだか納得の布陣。で、名古屋の次に開設されたのが福島。え?という・・・

開設年開設地
1882年本店、大阪
1893年札幌、函館、小樽、北九州(西部)
1894年京都
1897年名古屋
1899年福島
日銀本店、支店の開設年。広大とはいえ北海道に3か所できるとは、当時いかにアツい地域だったのかがうかがえる。

その理由は、先に述べた交通の要所としての福島の位置づけがある。ではその流通網でもって何を運んだのか。答えは、山間の小さな神社にある。

阿武隈の猫神様

福島市は盆地なので、市から出ようとすると、どの方向であっても山越えは必須。国道114号線に浜通り方向に向かう。阿武隈水系の女神川を越えるあたりから向こう側、現在は行政区域が異なる複数の地域をひっくるめて、かつては「小手」と呼ばれた土地だとか。道の駅かわまたで国道を降りてさらに山中をいく。うねうねした生活道のはた、目にも鮮やかな朱の鳥居が飛び込んでくる。猫稲荷神社。狐ではなく、猫を祀った稲荷神社だ。

うららかな春の日の猫稲荷神社

会津のほうには猫魔岳なんてのもあるからして、福島はある意味化け猫の本場。だから猫股でも祀ったのかと思いきやさにあらず。元は普通の稲荷神社で、それが猫稲荷神社とあらためられた。なぜ猫なのか。これが日銀福島支店の謎の答え。ここいらではふるくから養蚕が盛んで、猫が蚕の守り神として信仰されたのだ。

いやでも、なんで猫が蚕の守り神になるの?という疑問が出てくる。答えは一言で終わってしまうんだけど、日銀支店の謎をとくために、この地での養蚕の歴史をたどってみよう。

養蚕を伝えたのは?

小手での養蚕の歴史は古い。少なくとも平安時代にはさかのぼるようだ。小手の中心地、川俣町では、平安時代どころか飛鳥時代に伝えられた説をとっており、蘇我馬子から逃げて出羽三山を開いたといわれる蜂子皇子、の後を追ってきた母=大伴小手子姫が養蚕を伝えたとしている。公認ゆるキャラももちろんいて、立派な像も建てちゃっている。

小手姫の像 タフなお顔をしてらっしゃるが、母は強しということか。 Source:wikimedia

しかしこの手のお約束で、伝承はひとつとは限らない。「ふるさと再発見 : 福島県市町村新風土記」によると、「小手姫」の由来が他にも伝えられている。

  1. 仁徳天皇の時代に、養蚕技術の普及のために派遣された人がいて、その人の娘が「小手姫」だった。
  2. 称徳天皇の時代に、朝鮮からやってきた技術者がいて、その人が「小手尼」だった(姫はどこから?)。

うん、これじゃあ夢がないよね。大伴小手子姫説にしたくなる気持ち、わかりますよ。

そして猫、神になる

小手で養蚕が古くから行われていたのはわかったとして、なんで猫で稲荷なのさ、という点については、お蚕さんの天敵はネズミで、伝統的にネズミの天敵は猫。だから、蚕を守るには猫で、現世利益の神頼みだから猫稲荷、ということのようだ。

By:魚屋北渓 Source:Art Institvte Chicago

神様属性にするためにせよ、狐から猫へのシフトがなにげなさすぎやしないか、というアナタ。その疑問、ごもっとも。が、どうも民間伝承やらなにやらを眺めてると、猫と狐の親和性は高いらしく、頻繁な置き換えが見られる。このへんはもうちょっと調査が必要なのでここではやめとく。

養蚕産業のサプライチェーン

さきほど、福島では河川に沿って街道が延びていると書いたが、ここも例外にあらず。このあたりの山地を水源とする広瀬川は伊達市で阿武隈川に合流するが、これにそって街道が延びた街道が東北道に合流する。小手から東北道に合流するのはこのルートだけではなく、女神川に沿った街道もあり、これはもっと南側の二本松で合流する。そのうえ、街道があるのは阿武隈川水系だけではない。新田川沿いの街道は相馬まで延びて海運とつながり、請戸川沿いの街道は浪江で海運につながる。言いたいのは、このあたりは阿武隈山地の交通の要所のひとつだった、ということ。

蚕種。卵は紙に張り付けられた形で流通していた。蚕が羽化するのは春なので、普通に育てると春しか繭が取れない。しかし、風穴の低温を利用することで意図的に羽化を遅らせられる技術が長野で開発されると、あっというまに日本中に広まって通年採取されるようになった。養蚕が盛んな地域に山地が多いのは、現金収入源として重宝されたのはもちろんだが、地理的に適していたことも理由のひとつだったろう。女織蚕手業草から by:喜多川歌麿 Source:NDL

そりゃ絹を運ぶわけだから交通の便が良いと便利なのは当然なのだが、便利なのは出荷だけではない。蚕から繭を生産するためには蚕種といわれる蚕蛾の卵が必要だが、蚕種生産にはそれなりの資本力と気候的・地理的条件が必要なもんで、繭生産とは分業している。つまり、繭生産者は、蚕を育てるには蚕種をどこからか購入なければならない。福島には、信夫、伊達という、良質の蚕種生産地域があり、小手はこれらとのアクセスが良いことも幸いした。

このあたりは山間なので平地は少なく、日照時間的にも作物の栽培に適しているとは言い難い。もちろん伝統やらもあるだろうが、それがなくても純粋に現実問題として、換金商品である養蚕に励む理由は十分にあったわけだ。財政難に悩んでいた江戸幕府がこれを見逃すはずもなく、江戸時代には陣屋が置かれ、現金収入源のひとつとしても機能していたという。

明治時代のデータだが「川俣町史」によると、川俣での米麦の自給は1か月に足らなかったというから、残りの11か月分はどこからか買っていたということ。ちなみに、他国と比較して食料自給率が低い今日の日本ですら、カロリーベースで38%は自前で賄っている。それほどに、当時のこの地は、生活基盤を養蚕産業に頼っていたのだ。だから、普段は寝てばかりでしかも「お蚕様」をオモチャにする猫をも神様として祭ってしまうのは、理解できなくもない。

福島県のパイオニア

で、日銀福島支店の謎はなんなん?といえば、これもまた養蚕がらみ。明治時代に、欧米女性の脚をストッキングで覆うために、絹製品の輸出が盛んだったのは知られた話。世界遺産に登録された富岡製紙のほうがメジャーだが、ここ福島にも製糸工場があった。二本松製糸会社だ。

当時、日本の絹製品は品質のバラツキが大きく、取引上のトラブルも多かった。そんな中、二本松製糸会社は、比較的均質化された良質の絹製品を生産したという。ことに米国での評価が高く、日本企業で始めて米国に支店を出したのは、外ならぬ二本松製糸会社。中間マージンカットの直販により、相当の利益を得たらしい。

先に述べたとおり、小手から二本松までは街道が延びている。二本松製糸会社で製糸に使った繭がすべて小手産なのか、といえば、もちろんそんなわけはないのだが、東北道上に位置する二本松に、おそらくは信夫・伊達の蚕種から生産した繭が、福島を中心とする東北一円から流れこんだのは間違いないようだ。

桑の葉採取。現在は桑の木の樹高はせん定して低く抑えるが、江戸時代はそうでなかったようだ。ちなみに、文献に残る最も古い桑の品種は「柳田」で、福島県は伊達で記録が残されているという。これも資本力があったせいなのか、同地で研究が進んでいたのかがうかがえる。女織蚕手業草から by:喜多川歌麿 Source:NDL

1873年に創業した二本松製糸会社は、早くも1886年には解散してしまう。しかし、いちど築かれた産業基盤と、そこから生まれるキャッシュフローは影響を残し、1899年に至って日銀福島支店の開設となった、ということらしい。

猫…稲荷神社

猫稲荷神社にもどろう。この神社は、市場が月6回開かれていたという中町、横町、新町、上中町、鉄砲町、つまり小手の中心地からは離れた場所にある。実際、ここは明治までは西福沢村で、川俣町として組み入れられたのは昭和になってからだ。

そんな僻地(失礼!)にある神社だが、最盛期は、地元の人だけではなく他所からも参拝者が訪れていた。市場が開かれていた場所の近くに、より小手姫縁のありそうな機織神社とか、それなりな規模の神社があるにもかかわらず、だ。かほどに、小手の「絹の里」ブランドが強固だったということだろうか。

地形的に食料の自給率をあげるのが困難で、交易の重要性を知っていた小手の人々は、当時の福島町(現福島市)までの新道開削のために資金を用意している。二本松で購入した米殻や、福島町から購入した塩・日用品を運んだであろう道は今日、チェーン店のコンビニやスーパーやホムセンなどありふれたものや、UFOふれあい館というありふれてないものが並ぶ、地方の幹線道路の様相だ。それでも一度国道を外れてしまえば、里山の風情は色濃い。いまも山のふもとには、斜面に張り付けたような古木の桑畑が残っているが、かつては、山の上にまで桑を植えていたそうだ。

猫稲荷神社の境内から。この風景は、相馬や浪江からの参拝者を迎えていたときから変わっていないのだろう

峠の向こうは避難区域。地元の人に聞くと、山で放射能が遮られたという。農業で食っていくには周りを囲む山で苦労したのだろうが、その山が放射能からこの地を守ったともいえる。いや、世界は猫中心に回っているのだから、守ったのは山ではなく、猫稲荷様というべきか。

・・・ココまできてなんだが、この神社、「川俣町史資料 第21集」によると、明治11年の神社財産録申請では「稲荷神社」とある。猫稲荷神社ではない。でも、この記事では1871年つまり明治4年に猫稲荷神社と改めたと書いてある。あれ?

それなりに古い猫絵馬があるので猫稲荷であることは間違いなさそうなんだが、もしかしたら猫稲荷神社ってのは通称なのかもなー。


References

  • 「蚕 絹糸を吐く虫と日本人」畑中章宏 著 晶文社出版
  • 「開港とシルク貿易 蚕糸・絹業の近現代」小泉勝夫著 世織書房出版
  • 日本の川-東北-阿武隈川-国土交通省水管理・国土保全局
  • 日本銀行
  • 「川俣町史」川俣町史編纂委員会編 川俣町出版
  • 「福島市史 第3巻」福島市史編纂委員会編 福島市教育委員会出版
  • 「ふるさと再発見 : 福島県市町村新風土記」福島民友新聞社編集局編 福島民友新聞社出版
  • 農林水産省
  • 二本松市
  • 横浜開港資料館
  • 「川俣町史資料 第21集 (社寺明細調書 4 富田村 その2(東福沢・西福沢) 明治11年10月)」川俣町文化財保護審議会編 川俣町教育委員会出版
  • https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/kodomotoukei/kakei.html

First posted date : November 8,2023

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