猫の妙術

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解説の冒頭で内田氏はこのように述べている。

いったいどのような人たちがこの本を買うのでしょう。たぶん武道を稽古し始めて数年というくらいの人たちが購入者のヴォリュームゾーンではないかと思います。・・・中略・・・また、武道をまったく嗜んだことのない人のセンサーにもたぶん本書のタイトルはヒットしないはずです(なにしろ「天狗」と「猫」の話ですからね)。

天狗芸術論・猫の妙術 佚斎樗山(著)石井邦夫(訳) 講談社

内田氏はネコ好きの好奇心、というよりはヒマ具合なぞ考えもしなかっただろう。武道をまったく嗜んだことはなく今後もないだろうが、彼の予想に反してヒットしたこの本のあらすじはこんな感じ。

剣術者の家に狂暴な鼠が出た。近所で評判の猫を集めて鼠退治をさせたが全く歯が立たず、焦れた剣術者自ら鼠退治に乗り出すが太刀打ちできない。そこで、さらに遠くから鼠捕りの名人と評判の古猫を借りる。動きはのろのろ、外見もぱっとしない。だが評判は評判だしと鼠の部屋にいれると、猫どころか人にも喰いつく勢いだった鼠がすくんででしまって動けず、かの古猫は何の苦もなく鼠をとらえてしまった。その夜、鼠捕り自慢の猫たちが古猫のもとに集まって教えをこう。彼らの話を聞いたあと、古猫は語る「我何の術をか用ひむや。無心にして自然に応ずるのみ」と。

ここに至るまでの猫たちの語る修行にも日本人お得意の擬人化感が溢れているが、古猫の伝術を読みながら連想したものはふたつ。

ひとつは、十牛図。禅の悟りを描いたもので、真の自己を牛で、真の自己を求める人を牧人で表している。教えを乞うている猫たちは、いってみれば得牛や牧牛、せいぜいが騎牛帰家の段階であり、古猫は忘牛存人の段階なのだろうか。日本の禅宗は、武士道とともに独自に思想を発達させた側面もあったようだから、 十牛図と思想的に通じるものがあってもなんの不思議もない。

もうひとつは、なんとエースをねらえ。主人公の岡ひろみがテニスを通じて成長する、伝説のスポ根漫画。

コーチである宗方が、ひろみに座禅をさせたり「山、山にあらず これを山という」と言ったりするシーンがある。その後、ひろみが試合で打った気負いないボールに相手が全く動けなかったとき、ひろみは「なぜ、あのボールが?」と思い、コーチはぐっとこぶしに力を入れる「よし、それでいい」。無心のわざを上とする点が同じだ。

古猫や忘牛存人やひろみのやってることはたぶん、フローと言われるものと同じまたは近しいのだろう。自分でこうしようああしようと思うことなく、身体及び精神が活動し、状況を制御できている状態。

しかし古猫は、フローらしきものの状態で善しとしない。続いて猫たちに語る。昔いた猫は始終寝てばかりいたが周りには鼠はいなかった。それで知ったことがある。「彼猫は、己を忘れ物を忘れて物なきに帰す。神武にして殺さずといふものなり。我も亦彼に及ばざること遠し」と。

十牛図には人牛倶忘という段階がある。テニスはスポーツだから勝敗を忘れることはできないが、お蝶夫人はひろみに「天才は無心なのです。あたくしはダメでした。あなたはいついかなる時でも、ただひたすらな努力をしてほしい」と諭す。

十牛図 人牛倶忘 牛も消え、牧人も消えた状態 Source:Wikipedia

さらなる高みをめざす、なんてことは、正直いって猫にはそぐわない。しかし無心には近いようには思える。いや、無心というよりは、常に事実、現実しか意識していないように見える。ちゅーるを食べているときも。ウンコをしているときも。彼らは夢想や幻影はほとんどもたない。それらにまみれている筆者にはだから、猫じたいが夢想のように思える。

超高校級だけのことはある。お蝶夫人は正しい。「無心」のひろみや猫は、やはり天から与えられた才をもつものなのだろう。


Reference

  • 天狗芸術論・猫の妙術 佚斎樗山(著)石井邦夫(訳) 講談社
  • エースをねらえ! 山本鈴美香  集英社
  • Flow: The Psychology of Optimal Experience/Mihaly Csikszentmihalyi 

First posted date : February 10,2023

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