デカメロン

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今日は此処、明日は彼処という風に泊まり歩き、愉快に饗宴を張ったとしても、それはなすべきことをしたにすぎますまい。そういう風に暮らして(死が私たちの所にやってこないうちに)天がこの災厄をおしまいにするのを眺めましょう。

「デカメロン」岩波文庫 ボッカチオ著 野上素一 訳

枠物語には、避けられない宿命がある。物語のなかで他の物語が語られるのだから、物語を語る必然性が必要なのだ。そうでないと、枠物語がはまるそもそもの物語が成立しない。

知られる限りでこの宿命をもっとも上手く処理し、単なる設定以上の効果を得たのは、おそらく 千一夜物語。シェヘラザードと妹、そして続いて失われるであろう何十人、何百人もの娘の命がかかっているのだから、そりゃあ必死になって物語を入れ子にしようとするだろう。

対して、デカメロンである。物語を語り続けなければ誰かが死ぬような設定は、ない。7人の女性と3人の男性が、トスカーナの田舎の別荘で10日間遊び暮らすなか、午後のつれづれに物語を語るもの。

だけど、イタリアの強い陽光のもとに落ちる影は暗い。ペストだ。物語の男女は、フィレンツェで猛威をふるうペストを避けて、郊外の別荘に来たのだ。

デジャブだ。新型コロナウイルスが猛威をふるい、世界中の都市がロックダウンされたことを、2022年の今、忘れた人はいないだろう。当時、デカメロンにあやかったプロジェクトが複数立ち上げられたのもうなづける。

そんなことどうでもいいし By Eszter Miller/Source: pixabay

さて、本家本元のデカメロンを書いたボッカチオは、14世紀の花の都はフィレンツェの詩人。そう、詩人なのだ。当時は詩のほうが評価されていたらしく、ナポリの宮廷に出入りしたり、法王への使者として赴いたりしている。

商人の息子として生まれたボッカチオ自身は、商売にはまったく興味が無く親を失望させたが、彼の生みだした作品であるデカメロンは、フィレンツェからヨーロッパ中に旅立った商人に愛好され広まった。散文の軽妙さと、ボッカチオのもつ古典知識とのバランスが、当時の教養人にはちょうどよい塩梅の娯楽だったのだろうか。

すでに書いたが、デカメロンには猫メインの話はひとつも無い。唯一の出番は、9日目の第6話のみ。セリフはない。だって猫だもの。ただ、何かを落として物音をたてるだけ。エキストラといったところ。

そのほかには、隠喩、たとえのような使い方をされているのが見つかる。いわく「わたしたちが年をとると、夫でも、他の男でも、私たちを見たがらないどころか、台所に追いやって猫と話をさせたり」(5日目第10話)とか。「恋人を猫のように屋根づたいに来させるかわりに」(7日目第5話)とか。

いや、出番は他にもあった。猫本人ではない。8日目第9話に、立派すぎる猫とねずみの戦争の絵として。

デカメロンよりおよそ3世紀前の日本では、猫が、物語上で重要な役割を果たしていたり、随筆のトピックスのひとつになっていたりする。イタリアではずいぶん扱いが違うようだ。宗教・思想上の理由があったようだし、なによりかの地には、猫を溺愛するセレブがいなかったのだろう。

すくなくとも文学史上、日本の猫は、というより日本のネコ好きは、僥倖だったといえるかもしれない。


Reference

  • 「デカメロン」岩波文庫 ボッカチオ著 野上素一 訳

First posted date : December 29,2022

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